デスカムトゥルー クリア感想

デスカムトゥルーをクリアした。

結構夢中になってやっていたようで、2時間くらいでクリア。

面白い体験だった。

 

ネタバレを避けるけれど、クリア後の人へ向けて書く。

興味があるならまずやってくれ。

 

 

デスカムトゥルー公式サイト

https://deathcometrue.com/

 

ティザームービー


Death Come True (デスカムトゥルー)ティザー映像/Death Come True Teaser 本郷奏多・栗山千明出演の実写インタラクティブムービー

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、個人的な感想である。

良かった点、改善して欲しい点がそれぞれあったので、それぞれ書いていく。

 

 

 

【良かった点】

・全体の完成度

満足度が高い。プレイ中もプレイ後も「面白かった」と素直に思う。

全体の構成はよく纏まっていたし、物語としてわかりにくい部分はない。

特殊な形態のゲームに見せかけて、万人に受け入れられやすいゲームだったのではないだろうか。

 

 

・サイドキャラクター

本郷奏多栗山千明のメインは花形としての役目をきっちりこなしていた。

が、輝いていたのは森崎ウィン山本千尋だろう。

この二人の役が本当に良かった。小高和剛はこういうキャラ描かせたら天下一品だなと改めて感じた。

 

 

・ボリューム

良かったというか「ちょうど良かった」。

ダレるほど長くはなく、物足りないという感覚もない。

ちょうどいい量の謎と推理と達成感。バランスが良かった。

 

 

・映像のカット

映像美は正直あまり期待していなかったのだが、廊下から現れる敵や、鏡の反射を利用したシーンなど結構こだわりを感じた。

 

 

 

【改善して欲しい点】

・スキップ機能

スキップ機能がちょっと使いづらい、というかタルいな〜と思った。

次の選択肢までスキップができたらいいのに…と思う場面が多々。

しかし全編ほぼムービーだしこの辺難しいんだろうなというのも感じるので、技術革新に期待という感じだ。

 

 

・演出

「これは映画なのか?ゲームなのか?」という煽り文句がPR画像に載っているが、一番そこに悩んだのは演出陣営だったんじゃないかな……

映画とゲームの演出の折衷を図った結果、微妙に感情移入しづらい形式になってしまったように思える。

確かにこの場面では戸惑うよな、わかるわかると思った次の瞬間、いやこいつめちゃくちゃ独り言喋るじゃん引くわ…と思っている自分がいる。

本来映画とゲームでは、状況説明のやり方が全く異なるはずである。

すべてテキストで表現するゲームと、風景と登場人物の表情とセリフで表現する映画。

明らかに演出面はゲームのやり方に偏っており、結果、なんでこいつはここでこんなこと言ってんの?なんでわかり合ってんの?というトンチキなシーンがいくつかあった。

映画とゲームでは、観客(プレイヤー)の没入の仕方がそれぞれ違う。

この壁を越えられたらジャンルとして確立できそうだが、現状は厳しいと言ったところだろうか。

 

 

・設定の甘さ

もうちょっと人物設定をきっちりつめて表現して欲しかった。

特殊捜査官そんな言動する?職務中では?みたいな、オイオイこの刑事バッグに生身で拳銃突っ込んでるぞ!みたいな、見方によってはギャグに変わってしまうシーンが(おそらく)意図せずに入ってしまっていた。

その結果、彼らの人間性というか、説得力が足りないと思う場面が多かった。

逆に先述した良かった役者陣は、この説得力が非常に高かった。

制作側の突飛な想像力だけでは、実写での説得力は生まれない。

実写でやるなら、実写だからこそ、もっと細かく「なぜここで驚くのか?」「なぜここで理解し合うのか?」といった部分を考え抜いて欲しかった。

 

 

 

以上、デスカムトゥルーの感想だった。

改善して欲しい点が多くなってしまった、期待を込めているという言い訳をさせて欲しい。

制作(特に演出面)がゲームよりの構成だったと感じたので、後続作があるとしたらもっと映画や映像作品側からのアプローチをしてみて欲しいなと思う。

が、これもまた色々厄介なんだろうな……

確実に新たな挑戦であったと思うし、今挙げたような改善して欲しい点こそ後続作への期待、モチベーションにつながるのではないだろうか。

今後もこういった映画×ゲーム作品が増え、その中から名作として後世に名を残すものが生まれたらいいなぁ。

 

クィア・アイをみて落ち込むことをやめたい

Netflixオリジナルシリーズ「クィア・アイ」は、非常に人気のあるネット番組の一つだ。

 

ドキュメンタリー形式で進む番組では、5人のクィア(この番組では全員ゲイ)が登場し、「冴えないあの子を大変身!」させていく。

 

この番組の特徴は、「自己肯定感を高める」ことに焦点が当てられていること。

なぜ身嗜みを整えるのか?自分に自信を持つためである。

なぜ料理を作るのか?仲間と食べる時間を作るためである。

 

衣食住を大切にすることは、自分を大切にすること、そして自分の周りの人々を大切にすることだと、この番組は何度も繰り返し表現している。

 

私はクィア・アイが好きだ。

全編追えているわけではないが、ふとした時に視聴し、ファブ5(番組に登場する5人のクィアのこと)の言葉に感銘し、依頼人の変身に感動し、号泣する。

なんならそのままスーパーへ料理の食材を買いに行ったり、部屋の片付けをしたり、服の整頓をしたりする。

 

が、さらにその後。

ここが問題である。

 

私は、めちゃくちゃに凹んでしまうのである。

 

ひどい言葉を投げかけられた日の夜のような、重いナイフを胸に刺されたような、そんな暗澹たる気分となるのである。

 

これは一体何なのか。

 

まず最初に思いついたのは絶望である。

クィア・アイという希望あふれる作品を見て、私は絶望している。

 

何に絶望しているのか。

 

それは多分、「ダメなままでいること」を否定されたと感じるからだ。

 

クィア・アイに出てくる依頼人たちは、どこか「ダメ」である。

部屋が汚なかったり、学生時代の趣味グッズで溢れていたり、カーゴパンツを履いている。

 

この「ダメ」な部分は、大体の場合番組後半には見えなくなる。

みな、すっきりした顔で、「本当の自分を曝け出すことができた」と語り、ファブ5と感動的なハグをする。

 

依頼人のダメな部分に共感している自分は、ここで置いていかれる。

私の部屋はあまりきれいではない。ゲームとパソコンが第1にセッティングされ、キャラクターグッズもたくさん飾られている。

 

ダメな部分を改善し、克服した依頼人の姿はとても尊いと思う。

そしてその手助けをするファブ5たちも、同様に素晴らしいと思う。

 

しかし、この「ダメな部分」こそ、ファブ5以前に依頼人が救いを見出していた場所なんじゃないのかと思うのだ。

お洒落に無頓着であれば、他人に興味を持たれない自分を受け入れることができる。

死の淵にいた自分を救ってくれた趣味で、心のバランスを保っている。

ダメな部分はつまり、その人が限界を迎える前に見つけた安寧の地であると、私は思うのだ。

 

そのダメな部分は、ファブ5と依頼人の決意によって丁寧に埋葬される。

安心毛布を手放し、新たな一歩を踏み出すのだ。

 

だが待ってほしい。

本当にそれは手放さなければならない安心毛布なのだろうか。

 

大人になっても安心毛布を握りしめることは、いけないのだろうか。

 

いまだぬいぐるみと共に夜を過ごし、休みの日はゲーム三昧の自分は、

そんな気持ちになってしまう。

 

私も、安心毛布を捨てなければならないのだろうか。

むしろ、今捨てるべきなのだろうか。

 

クィア・アイを観ると、そんな気持ちになる。

しかし私の隣には、ファブ5はいない。

 

このままではダメなんだという事実が残り、しかしそこから動き出すことができない。

自分の安全地帯を手放すことは、恐怖以外の何者でもない。

 

助けてほしいと思う。

どちらかにいたかったと思う。

 

クィア・アイで感銘を受けたから、ダメなままでいる自分を肯定することが難しい。

だからと言ってファビュラスな自分に生まれ変わることも、自分一人ではやり遂げられない。

 

ままならなすぎである。どうしたらいいんだ。

結局また、感動の涙と絶望の涙を流すだけだ。

 

私はいつか、変われるのだろうか。

それともそれは、「変わってしまう」なのだろうか。