クィア・アイをみて落ち込むことをやめたい

Netflixオリジナルシリーズ「クィア・アイ」は、非常に人気のあるネット番組の一つだ。

 

ドキュメンタリー形式で進む番組では、5人のクィア(この番組では全員ゲイ)が登場し、「冴えないあの子を大変身!」させていく。

 

この番組の特徴は、「自己肯定感を高める」ことに焦点が当てられていること。

なぜ身嗜みを整えるのか?自分に自信を持つためである。

なぜ料理を作るのか?仲間と食べる時間を作るためである。

 

衣食住を大切にすることは、自分を大切にすること、そして自分の周りの人々を大切にすることだと、この番組は何度も繰り返し表現している。

 

私はクィア・アイが好きだ。

全編追えているわけではないが、ふとした時に視聴し、ファブ5(番組に登場する5人のクィアのこと)の言葉に感銘し、依頼人の変身に感動し、号泣する。

なんならそのままスーパーへ料理の食材を買いに行ったり、部屋の片付けをしたり、服の整頓をしたりする。

 

が、さらにその後。

ここが問題である。

 

私は、めちゃくちゃに凹んでしまうのである。

 

ひどい言葉を投げかけられた日の夜のような、重いナイフを胸に刺されたような、そんな暗澹たる気分となるのである。

 

これは一体何なのか。

 

まず最初に思いついたのは絶望である。

クィア・アイという希望あふれる作品を見て、私は絶望している。

 

何に絶望しているのか。

 

それは多分、「ダメなままでいること」を否定されたと感じるからだ。

 

クィア・アイに出てくる依頼人たちは、どこか「ダメ」である。

部屋が汚なかったり、学生時代の趣味グッズで溢れていたり、カーゴパンツを履いている。

 

この「ダメ」な部分は、大体の場合番組後半には見えなくなる。

みな、すっきりした顔で、「本当の自分を曝け出すことができた」と語り、ファブ5と感動的なハグをする。

 

依頼人のダメな部分に共感している自分は、ここで置いていかれる。

私の部屋はあまりきれいではない。ゲームとパソコンが第1にセッティングされ、キャラクターグッズもたくさん飾られている。

 

ダメな部分を改善し、克服した依頼人の姿はとても尊いと思う。

そしてその手助けをするファブ5たちも、同様に素晴らしいと思う。

 

しかし、この「ダメな部分」こそ、ファブ5以前に依頼人が救いを見出していた場所なんじゃないのかと思うのだ。

お洒落に無頓着であれば、他人に興味を持たれない自分を受け入れることができる。

死の淵にいた自分を救ってくれた趣味で、心のバランスを保っている。

ダメな部分はつまり、その人が限界を迎える前に見つけた安寧の地であると、私は思うのだ。

 

そのダメな部分は、ファブ5と依頼人の決意によって丁寧に埋葬される。

安心毛布を手放し、新たな一歩を踏み出すのだ。

 

だが待ってほしい。

本当にそれは手放さなければならない安心毛布なのだろうか。

 

大人になっても安心毛布を握りしめることは、いけないのだろうか。

 

いまだぬいぐるみと共に夜を過ごし、休みの日はゲーム三昧の自分は、

そんな気持ちになってしまう。

 

私も、安心毛布を捨てなければならないのだろうか。

むしろ、今捨てるべきなのだろうか。

 

クィア・アイを観ると、そんな気持ちになる。

しかし私の隣には、ファブ5はいない。

 

このままではダメなんだという事実が残り、しかしそこから動き出すことができない。

自分の安全地帯を手放すことは、恐怖以外の何者でもない。

 

助けてほしいと思う。

どちらかにいたかったと思う。

 

クィア・アイで感銘を受けたから、ダメなままでいる自分を肯定することが難しい。

だからと言ってファビュラスな自分に生まれ変わることも、自分一人ではやり遂げられない。

 

ままならなすぎである。どうしたらいいんだ。

結局また、感動の涙と絶望の涙を流すだけだ。

 

私はいつか、変われるのだろうか。

それともそれは、「変わってしまう」なのだろうか。